技術はお金で買える。だから「届け方」が要る

休日に、久しぶりにお茶でもどうですか、と誘われました。

行ってみると、そこには知り合いの監督と、海外の制作プロダクションのプロデューサーがいました。

お茶ではありませんでした。

そして、こう言われます。

「あのさ、車に人が轢かれるんだけど……どうしたらいい?」

打ち合わせだと思って来たら、もう撮影が始まっていました。

待ってください、いま撮るんですか

車に人が轢かれるカットです。安全設計が要ります。段取りが要ります。

その場でミーティングもなく、いきなりやらせるのかよ、と。

そして次にこう聞きました。

「誰が轢かれるんですか」

答えは、着ぐるみでした。

中の人は「存在しない」

ここで問題が起きます。

こういうカットでは、本来スタントマンが中に入ります。受け身、飛び方、初速の出し方——訓練された人間が入るから、安全に成立します。

ところが、そこそこ有名な着ぐるみでした。

有名な着ぐるみには、「中身の人は存在しない」という前提があります。設定として、そこに人はいないことになっている。

つまり、私が中に入るという選択肢が、最初から無い。

だから私にできるのは、スタンドイン(代役)として外で実際に動いてみせて、意図を伝えることだけでした。着ぐるみに、です。

まず、アクション監督の思考

こういうとき、頭の中では条件の整理が始まります。

シチュエーションは「女の子が自撮りをしながら歩いている」というものでした。だから当然、カメラはiPhoneで、縦型収録です。

そこから導かれる条件がこれです。

# 条件
① iPhoneの縦型収録なので、背景がタイト
② レンズは24mm相当
③ カメラの動線的に、リアクションにカウンターが掛かる
④ アイレベル収録なので、フレームインを感じさせるにはシビア

ここまでが「どう撮れるか」の分析です。アクション監督の思考と言っていい部分です。

次に、スタントマンの思考

ここからは、演者側でどう補うかという話になります。同じ条件を、今度は利用する側から見ます。

①(背景がタイト)を補完する → 斜めより縦目に飛んで、絵に残る部分を増やす

②(24mm)を活用する → 極力レンズの際から入って、24mmのパースを使う

③(カウンターが掛かる)を活用する → カウンターが掛かる瞬間を長く使う

④(アイレベルでシビア)を補完する → なるべく高く飛ぶ。初速を出す。腕を大きく使って動きを出す

条件は変えられません。変えられるのは、こちらの動き方だけです。だから「この条件をどう使い切るか」で考えます。

意図を伝えるところに、いちばん重責がかかる

そして実際の現場では、もうひとつ難しいことがあります。

キャストが意図を理解するには、時間がかかります。

だからスタンドインで実際に動いてみせて、作りたい絵の意図を、口頭とプレビューの両方で伝える。ここに、スタントマンやアクション監督補佐の重責がかかります。

それでも、伝えた意図のうち実際に撮れるのは、その何分の1かです。

さらにこの現場では、車の発射のタイミングと着ぐるみのフレームインのタイミングを、セーフティサポート(私)が出す必要がありました。ここにも責任が乗ります。

順序としては、スタンドインでテストを重ねて段取りを固め、そこで決まったことを着ぐるみに正確に伝えてから、本番という進め方をしました。

それでも、この作業があまり好きではない

正直に書きます。

こうして信頼をいただくのはありがたいのですが、撮影の状況からプリセットのようにアイデアを取り出す作業自体が、私はあまり好きではありません。

理由は単純です。

これらの技術は、場合によってはお金で簡単に買えます。

そしてプリセットを組む経験値さえあれば、それで十分だったりします。「カッコいいアクションを作る」という一点だけなら、技術と経験の組み合わせで、ある程度まで再現できてしまう。

だから、届け方が要る

そんなわけで私は、技術以上に「届け方・アプローチ・ストーリー」が大切ではないかと思っています。

技術は買えます。買えないのは、何を、誰に、どう届けるかの設計です。

そして私がお手本にしている人がいます。マイケル・ジャクソンです。

『スリラー』は、ホラーのパロディ「ではない」

まず前置きとして、ここから先は私個人の読み方です。公式に説明されている解釈ではありません。そのつもりで読んでください。

『スリラー』の歌詞は、恐怖の情景と、口説き文句が同居しています。

夜の街を徘徊する怪物、襲いかかってくる獣、誰も助けに来ない——という描写がある一方で、「お化けなんかより、僕の方が君をぞくぞくさせられる」という誘い文句も入っている。

つまり歌詞の段階で、すでにホラーとロマンスが混ざっている。純粋な恐怖の歌ではありません。

そしてショートフィルム(ミュージックビデオ)は、ホラー映画のパロディ「そのもの」ではないと思っています。

パロディの"振りをしている"のではないか、と。

なお、このMVはジョン・ランディス監督による約14分の短編映画です。狼男と、墓から蘇る死者。古い怪奇映画のフォーマットを、意図的に踏襲している作りになっています。

そのうえで、構造を追ってみます。

映画館のシーン

まず、劇中の映画館が映ります。スクリーンでは、女の子が襲われている。

そして客席では、みんなが笑いながらそれを見ています。マイケルもポップコーンを食べながら、笑って見ている。

彼は言います。面白いよ、と。

女の子は「面白くない」と言います。

ここが肝です。

衣装の色が説明している

冒頭のマイケルの衣装は、赤や黄色です。これは注意喚起色です。

一方、女の子はピンク。あどけなさや、ピュアな印象を持たせる色です。

映像言語として、明確に注意喚起しているわけです。「この男は危ない」と、色で先に言っている。

「僕はただの人じゃない」

そして彼は「自分はただの人間ではない」と告げ、夜になると狼になります。

これは、女性を襲う/弱い者をいじめることのメタファーではないか、と私は思っています。

本当に異様なのは、客席の方

そして、その弱い者いじめを、映画館の客が笑いながら見ている。

これは何かに似ています。

戦争が起きているのをテレビで見て「こんなことになってるんだ」と言っている状態。誰かがいじめられているのを、笑いながら見ている状態。

その異常さです。

そして、それに気づいているのは女の子だけです。他の全員は笑って見ている。この異様さが描かれている。

そして女の子は、映画館を出ていきます。

決定的なやりとり

映画館を出た女の子を、マイケルが追いかけます。そして「ただの映画じゃないか」と言い、「怖かったんだろう」と決めつけます。

女の子の答えは「面白くない」でした。

これが非常に秀逸です。人がいじめられているのを見て、彼女は「怖い」とは言っていません。「面白くない」と言っている。

なのにマイケルは、それを「怖いのだろう」と決めつけている。

そしてゾンビになる

このあと、マイケルはゾンビになります。

ゾンビとは何か。リビングデッドです。

生きているけれど、何も考えていない存在。

つまり——

弱い者いじめを笑いながら見ている連中は、ゾンビみたいなものだ。

そう言っているのだと、私は受け取りました。

『バッド』から強くなったのではない

多くの人は「マイケルは『バッド』のあたりから主張が強くなった」と思っているかもしれません。

違います。『スリラー』の頃から、彼はずっとロックです。

『ビート・イット』もそうです。一般には、ストリートの暴力から手を引け、争いから逃げろ、という非暴力のメッセージとして読まれています。当時のギャング文化や「男は強くなければならない」という価値観への、はっきりしたアンチテーゼです。

私はこれを、もう少し広く受け取っています。戦うことがビジネスとして成立している社会で、それでも戦う前に逃げろ、と言っているように聞こえる。

そして重要なのは、これをヒットチャートのど真ん中で歌うことが、どれほど難しい行為かということです。

戦争がビジネスとして成立している社会には、それによって利益を上げている巨大な企業が、いくつも存在します。平和を歌うということは、その側を敵に回すことを意味します。

しかも『スリラー』というアルバムは、『スリラー』と『ビート・イット』の2曲だけで、盛大に平和を歌っているわけです。

アメリカという、戦争がビジネスになっている社会。そして差別のある社会。 その中で、あの時代に、黒人のアーティストがそれをやる。

どれほど難しいことだったか、と思います。

そしてそれが、大ヒットしてしまった。

ある人たちにとっては、脅威と映ったのではないか——そう考えてしまうくらいのことです。

もっと考えるべきなのは、伝わったという事実

そして、ここが一番重要だと思っています。

これに気づいた人が、たくさんいたということです。

どれくらい届いたのか、数字で見てみます。

『Thriller』の世界売上 推定6,700万枚。史上最も売れたアルバム
ギネス記録 「史上最も成功したエンターテイナー」「世界で最も売れたアルバム」
グラミー賞(1984年) 8部門受賞。アルバム・オブ・ザ・イヤーを含む、史上最多

そして、もっと重要なのがこれです。

1983年12月2日、13分の『スリラー』のMVが MTV でプレミア放送されました。

当時のMTVは、有色人種のアーティストに対して「あなたたちの音楽は、うちのフォーマットに合わない」と、はっきり伝えていたネットワークです。

その壁が壊れました。

黒人アーティストが、この新しいプラットフォームから締め出されていた——その状況を、彼が変えた。そしてアメリカの視聴者は、黒人のビジュアル音楽に触れる機会を初めて持つことになります。

つまり『スリラー』が世界中で大ヒットしたということは、「黒人のマイノリティのアーティストが、こんな主義主張を、素晴らしい形でやってのけた」ということに、世界中が気づいたということです。

排除されていた場所に入り込んで、そこから世界一に届いた。 これが「伝わった」ということの中身です。

これは技術の話でもありますが、それ以上にアプローチの仕方であり、ストーリーの届け方です。

これだけインダイレクトで、かつエンターテインメントな方法でやってのけて、それが伝わった。

伝わったから、彼は『バッド』で主張を強くしていくのだと思います。

怒りと優しさ、両方で一貫している

『バッド』以降が面白いのは、マイケルには「怒り」と「優しさ」の両方があるということです。

彼は自分自身に対して、とても厳しい人だったはずです。だからこそ、厳しい一面が見える曲があるのだと思います。

他人に厳しいのではありません。自分に向けた厳しさが、曲に出ている。その強さが『バッド』に現れています。

「世界は変えられる」「その世界を見たいだろう」「それができないと言うなら、俺を殴ってくれてもいい」——そういう強さです。

そしてこの「世界を変える」は、『マン・イン・ザ・ミラー』と繋がっています。世界を良くしたいなら、まず鏡の中の自分から変えていこう、と。

命令ではなく、自分から始めようという呼びかけです。だから届く。

怒りの側と優しさの側、両方に主張があって、しかも一貫している。

『デンジャラス』でも同じことが起きています。『JAM』と『ヒール・ザ・ワールド』です。

デンジャラス・ツアーの1曲目が『JAM』でした。いきなり、国が繋がって問題を解決しなければいけないと歌い始める。

『JAM』が言っているのは「問題を解決して、世界を癒していこう」ということです。そしてそれは『ヒール・ザ・ワールド』が言っていることと同じです。

首尾一貫している。だから格好いい。 そして、一貫していたからこそ、あんなことができたのだと思います。

歌だけで終わっていない

そして、この一貫性は歌の中だけの話ではありません。

彼は生涯で 39のチャリティ団体を支援し、「最も多くの慈善団体を支援したポップスター」としてギネスに認定されています。寄付の総額は5億ドル以上とされます。

日本に関わるところで言えば、1995年の阪神淡路大震災のとき、チャリティ活動をしていた J-FRIENDS に楽曲を提供しています。

2005年のハリケーン・カトリーナのときには、「From the Bottom of My Heart (I Have This Dream)」を被災者支援のシングルとして用意しています。

そしてもう一曲、「What More Can I Give」があります。

この曲の発端は、1990年代後半にネルソン・マンデラと会ったことでした。当初はコソボ紛争の難民を支援するチャリティシングルとして企画されましたが、実現しませんでした。

その後、2001年の9.11を受けて作り直されます。セリーヌ・ディオン、マライア・キャリー、カルロス・サンタナ、ビヨンセ、アッシャー——錚々たる顔ぶれが集まって完成しました。同年10月には 「United We Stand: What More Can I Give」 というベネフィットコンサートも開かれています。

世界のどこかで何かが起きるたびに、彼は曲を作っていた。 そういう人でした。

『ヒール・ザ・ワールド』で世界を癒そうと歌った人が、実際に金と作品を出し続けている。ここまで含めて一貫しています。

ベルリンの壁について

もうひとつ、こういう記録が語られることがあります。

1988年6月、壁の西側で行われたコンサートの最中、そういった音楽を禁じられていた東側の若者たちが、彼の歌を聴こうとして壁の周辺に集まり、解散させようとする警察との小競り合いになった——と。

自分たちの世代に届く音楽を聴く権利を要求した、という文脈で語られています。

壁の崩壊にどこまで影響したのか——その因果を私が証明することはできません。歴史の出来事が、ひとつの原因で説明できるはずもない。

ただ、この記録が示しているのは、もっと直接的なことだと思います。

音楽が、壁の向こう側にまで届いていた。

そしてそれを聴くために、若者たちが壁のそばまで集まった。禁じられていたにもかかわらず、です。

彼らを動かしたのは、政治的な演説ではありません。歌です。

届け方の話として、これ以上の例を私は知りません。

私が学んでいること

技術の話から始めて、なぜマイケル・ジャクソンの話になるのか。

技術だけでは届かないからです。

車に轢かれるカットをどう成立させるか——それは技術で解けます。でもその映像が誰に何を届けるのかは、技術では決まりません。

技術で何かを得ることは、仕事をしていく上でとても大切です。 それは間違いない。

ただ、自分の意思を届けたり、自分の考え方や主義主張を伝えていく方法としては、まったく別のものが必要になります。「技術」と呼ぶと語弊がありますが、確かに方法論はある。

そして、ここが一番言いたいことです。

伝えるべき信念や哲学がきちんとしていないと、技術の使い方が「技術だけ」になってしまう。

条件を分析して、パースを使って、初速を出して——それは全部できます。でもそれで何を届けるのかが自分の中に無ければ、上手いだけの絵が残ります。

技術は手段です。手段が目的になった瞬間、届かなくなる。

だから私は、技術を磨くのと同じくらい——あるいはそれ以上に、何を伝えたいのかを持っておくことが大事だと思っています。

そしてマイケル・ジャクソンがやった伝え方は、世界で一番売れ、世界で一番フォローされた方法論です。

その事実は、常に強く考えさせられます。

まとめ

作れることと、届くことは、別の話です。