「中身がない」と言われた香港映画が、なぜ先に世界へ届いたのか

アクションを生業にしていると、言われることがあります。

「アクションマンだから、ドラマが理解できないんでしょう」

多くの映画人や映画批評家と交流してきましたが、この手のレッテルは何度も貼られました。

そして、私が背中を追いかけてきた香港映画の作品群にも、同じことが言われてきました。

「中身がない」

数え切れないほど聞きました。

でも、ひとつ引っかかることがあります。

その"中身がない"はずの映画が、日本映画より数段早く世界に受け入れられた。なぜでしょうか。

1997年に、世界のアクション映画が変わった

まず事実として、1997年頃を境に、世界中のアクション映画の撮影・編集技法が変わりました。

理由は明快です。香港返還です。

ジョン・ウー、ユエン・ウーピン、ツイ・ハーク、サモ・ハン、コーリー・ユン、チン・シウトン——香港の映画人とアクション監督が、世界へ出ていった。彼らの技法が、ハリウッドの標準になっていきました。

つまり「中身がない」と言われた人たちが、世界の映像文法を書き換えたわけです。

決定的だったのは『マトリックス』

その礎のひとつが、『マトリックス』です。

キアヌ・リーブス主演、キャリー=アン・モス出演、ウォシャウスキー監督。この作品が、ハリウッドに ユエン・ウーピン をアクション監督として招聘しました。

これによって、香港映画のアクションスタイルが世界中に伝わります。

では、その「香港映画のアクション技術」とは、具体的に何なのか。ここを説明します。

それまでのハリウッドは、「分からなくする」ことで激しさを出していた

従来のハリウッドのアクション編集は、こういう考え方でした。

イマジナリーラインをクロスする。つまり、あえて超える。

そうすると画面上の位置関係が入れ替わり、何が起きているのか分からなくなります。その混乱が、観客にショッキングな印象を与える。それでアクションの激しさを担保していました。

映像の授業でよく扱われるのが、『インディ・ジョーンズ』の、巨大な石の球が転がって追いかけてくるシーンです。あれはラインクロスを何度も重ねることで、観客にショックを与えることに成功した事例として紹介されます。

そして、それが業界標準になっていました。

ただし副作用があります。

距離感も、何をやったのかも、分からなくなることの方が多かった。

激しくは見える。でも何が起きたのかは分からない。

香港は、「見せる」ことで激しさを出した

香港のアクションは、逆でした。

動きのディテール。いい場所。立ち位置。距離感。

これらをきちんと見せる。そうすることで、戦いの戦略のようなものが、ちゃんと見える演出を作っていきました。

誰がどこにいて、どういう間合いで、何をしたのか。それが分かるから、面白い。

ショットサイズには、理屈がある

そして、これが香港のアクション技術の具体的な中身です。動きの種類によって、適切な画角が決まっています。

動き 適したショット 理由
パンチを打つ 上半身 拳と体の連動が見える
蹴りまである 少し引いて膝上くらい 足の軌道が入る
敵が吹っ飛ばされる 引きの絵 爽快感が出る
吹っ飛んで壁にぶつかる 寄り目の絵 スプラッシュ感が欲しい

「なんとなくカッコいいから」ではありません。 何を見せたいか、どういう印象を与えたいかによって、画角が決まっている。

技術と印象が、裏打ちの関係で結びついている。

そういう体系が香港で作り上げられていて、それが『マトリックス』という作品を通じて、世界中に提示された瞬間でした。

「中身がない」ことが、アイデンティティだった

ここが本題です。

香港は英国領だったため、共産党や本土の影響を受けにくい土地柄でした。そこにあった価値は、こういうものです。

これが香港のアイデンティティであり、香港にいることの象徴でした。

だからこそ、「中身がないかのような作風」であること、娯楽作であること自体が、香港映画人のアイデンティティだったのだと思います。

真面目でないことが、自由の証明だった。

しかし1997年が迫っていました。

一人の男が、道を作った

さかのぼって1973年。香港中が一人の男に夢を見ます。

彼は武術とビジネス力と語学力を武器に、東洋人・アフロアメリカン・白人の3人が主演、かつアジア人が主演の映画を、香港と米国の共同出資で制作しました。

彼は東洋人・香港人・中国人の怒りを体現し、のちの香港映画の表現方法に大きな礎を残しました。

そして——彼は、作品の公開を見ることなく亡くなります。

ブルース・リー。1973年7月20日、32歳でした。

作品が香港で公開されたのは、その6日後です。そして、世界的な大ヒットになりました。

香港中が、一人の男に夢を見た

なぜ「夢を見た」と書いたのか。

アジア人が、アメリカ社会で優位に立てる。

そして——自分たちの文化で、それができる。カンフー。武術。マーシャルアーツ。借り物ではない、自分たちが持っていたもので、世界に対して優位性を持てるのだと示した瞬間でした。

その結果として、香港のアクション映画が、世界中に売れるようになります。

市場が開いたわけです。技術ではなく、彼が示した可能性によって。

彼は「武術家」として評価されがちですが

ここは強調しておきたいところです。

アメリカ社会でビジネスを成功させるというのは、強いだけでできることではありません。

彼はアメリカの大学に進学しています。つまり語学力があり、英語での文脈理解——何がどう受け取られるかを読む力に、非常に長けていた。そしてビジネスにも相当長けていました。

その結果が、あの制作体制です。

主体 立ち位置
ワーナー・ブラザース 米メジャー
ゴールデン・ハーベスト 香港
コンコルド・プロダクション 彼自身のプロダクション

自分の会社を、米メジャーと香港の間に置いたわけです。演者として雇われるのではなく、製作側に立った。クレジット上も、彼は主演であると同時に製作者です。

そしてこの作品は、ハリウッドのメジャースタジオが手がけた、史上初の中国武術映画でした。

この実績が、のちのジャッキー・チェンにも、香港映画全体にも影響を与えていきます。

ここがあったから、香港映画は世界に出ていく礎を築けた。 私はそう理解しています。

50年以上、残り続けた

そしてもうひとつ。

カンフー映画・香港アクションというジャンルが、1973年から今日まで残り続けたこと自体が、彼の影響の強さを表しています。

一人の人間が始めたものが、半世紀のあいだジャンルとして生き続けた。そういう例は、そう多くありません。

リーの死と、コメディの台頭

彼がいなくなって、香港映画からアクションというものが失われます。

そこで大きな勢力になったのが、コメディでした。マイケル・ホイの『ミスター・ブー』シリーズです。

ここで思い出してほしいのが、さきほどの土壌です。

自由に笑える。権威に石を投げられる。

香港という土地が持っていたその性質が、コメディという形で表に出てきたわけです。アクションが空席になったところに、もともとあったものが入ってきた。

彼らは、そもそも何者だったのか

ここで少し寄り道をさせてください。この話をしないと、片手落ちになると思うので。

サモ・ハン。ジャッキー・チェン。ユン・ピョウ。元奎(コーリー・ユン)。

彼らが何者だったか、ご存じでしょうか。

もともと、京劇を学んできた人たちです。

香港にあった中国戯劇研究学院という学校で、幼い頃から京劇の修行を積んだ人たちです。京劇の名武生・于占元が1960年代に開いた学校で、同門は「七小福」と呼ばれました。

(『マトリックス』に呼ばれたユエン・ウーピンも、京劇出身の武術指導者を父に持つ家系の人です。)

日本で言えば、歌舞伎役者です

伝統芸能の担い手だったわけです。

日本で置き換えるなら、歌舞伎役者さんのようなイメージだと思ってください。子供のときから型を仕込まれ、舞台の上で生きていくはずだった人たち。

ところが、時代が変わります。

「伝統芸能じゃ、もう食べられないよ」 「映画が最近は儲かるらしいよ」 「じゃあ、スタントマンとか芝居とかやってれば、僕らも仕事になるのかな」

——そうやって、映画の現場に流れていったんです。

これは比喩ではありません。1971年、京劇の観客が激減したことで、この学校自体が解散しています。 同門はそれぞれ、生きるために散っていきました。

帰る場所がなくなったんです。

そして、京劇の技術がアクションになった

彼らはスタントマンとして映画に入り、京劇で仕込まれた身体技術を、アクション映画へ昇華させていきました。

サモ・ハンも、ジャッキー・チェンも、そこから始まっています。

これは、すごい話だと思いませんか

構図として書き出すと、こうです。

歌舞伎役者が、映画という新しいメディアに移り、そこでイノベーティブな技術を作り出し、作品を大ヒットさせ、その技術を世界中に輸出した。

こうやって考えると、とんでもない話です。

そしておそらく、「見せる」アクションになった理由も、ここにあります。京劇は舞台です。客席から見えなければ、何の意味もない。何をやっているのかが伝わって初めて成立する芸能です。

その前提を身体に入れた人たちが映画をやったから、距離感も立ち位置も動きのディテールも「見せる」方向に行った——私はそう理解しています。

そこにも、信念があった

食べていくために移った、という話ではありません。

移った先で、自分たちが仕込まれてきたものを捨てずに、新しい形に作り替えた。 それができたのは、信念があったからだと思います。

そして何より——それがちゃんと「文化」になっている。

一人がうまくやった、という話で終わっていません。学校があり、同門があり、後進に受け継がれ、技術体系として残った。だから世界が呼びに来たときに、渡せるものがあったわけです。

そして、この記事の最後に名前を挙げる元奎も、その一人でした。

ジャッキー・チェンは、その2つをまたいだ

そして登場するのが、ジャッキー・チェンです。

彼が特別なのは、香港映画の2つの大きなジャンルを、同時に体現していることです。

ジャンル 出どころ
カンフーアクション 香港のお家芸と言われる身体技術(源流は京劇)
ギャグ・コメディ 検閲されにくい土地が生んだ「自由に笑える」「権威に石を投げられる」という発想

この2つが合わさって「アクションコメディ」になりました。

つまりジャッキー・チェンという存在は、香港という土地そのものを、非常によく表したスターだったのだと思います。

ただし、反体制ではない

ここは誤解されやすいところです。

彼が権威に向かっていたかというと、共産党批判のような反体制的なものではありませんでした。

どちらかというと、「国宝は中国のものだよね」といった、みんなを一つにまとめる方向のメッセージを、ずっと送り続けてきた人です。扱っている話題も、もっと大きなものでした。

「権威に石を投げられる自由」を土壌にしながら、本人は分断ではなく統合を語っていた。

この構造が、香港という場所の複雑さをそのまま表しているようにも見えます。

返還が迫るなかで作られたもの

1997年が近づくにつれ、香港映画には焦りが滲むようになります。

ジャッキー・チェンの企画

香港人のアイデンティティが失われるのではないか。

その懸念から、ジャッキー・チェンは『西域雄師』という企画を立てました。内容はこうです。

中国人が米国を訪れた際に記憶喪失となり、ネイティブアメリカンに助けられる。 移民の来訪によってアイデンティティを奪われたネイティブアメリカンと、 記憶を失った東洋人が、トラブルに巻き込まれながら心を通わせていく。

アイデンティティを奪われた者同士の物語です。返還前夜に、これを作ろうとした。

この企画は諸事情で実現せず、のちに『WHO AM I?』と『シャンハイ・ヌーン』の2作に分かれることになります。

タイトルが「私は誰だ」になっているのは、偶然ではないと思います。

黄飛鴻という、香港そのもののキャラクター

返還直前の作品の話をする前に、先に一人のキャラクターを説明させてください。

黄飛鴻(ウォン・フェイフォン)。実在した武術家であり、医師です。広東の人で、19世紀から20世紀初頭を生きました。

そして映画の世界では、とんでもない記録を持っています。

この人物を主人公にした映画シリーズは、世界で最も長いフランチャイズとしてギネス世界記録に認定されています。 作られた映画は、約89本。

さらに——關德興(クワン・タックヒン)という俳優は、この役だけを77回演じました。 同じ俳優が同じ役を演じた回数として、映画史上の記録です。

誰が演じてきたか、と言うと——

作品 演者
『酔拳』 ジャッキー・チェン(若き日の黄飛鴻)
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ』シリーズ ジェット・リー(彼の一番の当たり役と言われます)

つまり、香港を代表する2大スターの代表作が、どちらも同じ人物を演じたものなんです。

ジャッキーの『酔拳』は、あの黄飛鴻のまだ未熟だった頃という設定です。国民的英雄の若い頃を、ダメな若者として描いて笑いにした——これ自体が香港的だと思いませんか。

彼が、どういう立場の人だったか

先に断っておくと、黄飛鴻は香港の人ではありません。広東の人です。

そして重要なのは、彼の立ち位置です。

彼は自警団を率いて、民間のレベルで町の治安を守っていた人です。そして同時に、官軍や警察にも武術を教えていました。

さらに彼は医師でもあります。父の代から続く薬局を継ぎ、町の人を診ていた人間です。

軸 内容
お上の側 官軍・警察にも武術を教える立場。動乱期の治安維持に関わる
庶民の側 医師として町の人を診て、庶民の感覚を持っている
人間関係 恋人・弟子(人間味) ↔ 朝廷・軍(強制力のある命令)

つまり——庶民の考えと、お上の考えの、両方が分かってしまう立場です。

だから、繰り返し演じられた

どちらか一方の人間なら、話は単純です。両方が分かるから、引き裂かれる。

官の側の理屈は理解できる。でも、それが町の人にどう降りかかるかも見えてしまう。どちらの言い分も分かるのに、立たされる場所は一つしかない。

この構造が、返還を控えた香港と重なるわけです。

庶民として生きたいのに、上からは大きなものが降ってくる。しかもその大きなものを、頭では理解できてしまう。その葛藤を、一人の実在の英雄に背負わせられる。

だから、この役は演じられ続けたのだと思います。

なぜ、ジェット・リーだったのか

ここを考えてみてほしいんです。なぜ彼にこの役をやらせたのか。

ジェット・リーは、もともとリー・リンチェイという名前でした。中国本土で武術を修め、『少林寺』でデビューした人です。

その後、さまざまな事情があって香港へ移り、さらにアメリカへ拠点を移して映画活動を続けます。

言い方を選ばずに書けば、彼は中国本土から離れていった人です。

しかし——本土で育った考え方や価値観を持ったまま、香港という自由に憧れを抱いている。その両方を、本人が抱えている。

それは、黄飛鴻という人物そのものです。

ジェット・リー 黄飛鴻 香港
出自 中国本土で武術を修め、本土でデビュー 広東の武術家であり医師 元々は中国
立場 本土を離れ、香港へ、そして国外へ 官軍にも武術を教える/同時に町の医師 英国領から、中国へ戻る
板挟み 本土の価値観 ↔ 外で得た自由 庶民の感覚 ↔ お上の論理 庶民の生活 ↔ 大陸の方針

演者と、役と、土地。3つとも「両方の論理が分かってしまう」立場にいる。

これは偶然のキャスティングではないと思います。

そして、その真ん中にある問いは、たったひとつです。

——香港が返還されて、僕はどうなるんだろう。

『天地大乱』のアクションシーンの話をさせてください

シリーズ第2作、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ/天地大乱』(黃飛鴻之二 男兒當自強)。

武術指導は、ユエン・ウーピン。

そう、のちにハリウッドが『マトリックス』へ招聘する、あの人です。世界が呼びに来ることになる仕事は、すでにここにありました。

私はこの作品の、あるアクションシーンが大好きです。

敵は「白蓮教」という宗教集団

この作品で黄飛鴻が対峙するのは、白蓮教という集団です。

彼らが何をするか。子供や女性、民間の人たちを騙して、「西洋のものは悪である」と説き、排外主義を煽るんです。

そして海外から来たものを、片っ端から燃やします。ピアノ。機械。時計。 海外から来た犬まで殺してしまう。

外から来たものは、すべて穢れである。——そういう思想です。

そして、あのシーンが来る

アクションシーンの中で、こういうことが起きます。

小さな女の子が、「神仏の加護があるから自分は無敵だ」と信じて、銃に立ち向かっていく。

そして、被弾します。

これが、ものすごく秀逸なんです

何を描いているか。

戦争や排外主義が横行したとき、最初に傷つくのは誰なのか。

女性と子供です。弱いところから、まず影響を受けていく。

信じさせられて、無敵だと思い込まされて、前に出されて、撃たれる。煽った側は撃たれません。

それを、エンターテイメントのアクション映画の中でやっている。

派手な立ち回りとして成立させながら、その同じ場面で、排外主義の帰結を突きつけているわけです。観客はアクションを観に来ていて、そのまま受け取ってしまう。

子供のときは、ただ「かっこいい」と見ていた

ここが一番大事なところだと思っています。

私たちは子供のとき、これをただ「かっこいい」と思って見ていました。 それだけです。棒が回って、人が飛んで、すごいな、と。

でも、大人になってよく考えてみると——見えてくるんです。

——分かってるのかい。

アクション映画が、そう呼びかけてくるわけです。

子供のときに「かっこいい」として受け取ったものが、何十年か経って、意味として立ち上がってくる。

ここにメッセージがないわけがない。

「中身がない」でしょうか。

そして、返還5ヶ月前の作品

1997年2月、返還の5ヶ月前に公開されたのが、この黄飛鴻シリーズの一本でした。

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ&アメリカ』(黃飛鴻之西域雄獅)。

誰が作ったのか

そして、この座組を見てください。

役割 人
製作 ツイ・ハーク(徐克)
監督 サモ・ハン・キンポー(洪金寶)
主演 ジェット・リー

この2人が、返還直前に、このシリーズを作った。 これ自体が意味を持っています。

ツイ・ハークは「香港のスピルバーグ」と言われた人です。香港最大のエンターテイナーであり、香港映画のあらゆる企画を回してきました。

サモ・ハン・キンポーは、いわば香港映画の親方です。若手を前に押し出し、予算を出して映画を撮らせ、たくさんの人に仕事を分け与えてきた人。香港映画界そのものを育ててきた側の人間です。

つまり——香港映画を作ってきた張本人たちが、返還の5ヶ月前に、この作品を作ったわけです。

タイトルを、もう一度見てください

ここで、さきほどのジャッキー・チェンの企画を思い出してください。

『西域雄師』

そして、この作品の原題は——

『黃飛鴻之西域雄獅』

ほぼ同じです。

中身も並べてみます。

ジャッキーの企画『西域雄師』 この作品『黃飛鴻之西域雄獅』
舞台 アメリカ アメリカ西部
発端 記憶喪失 事故で記憶喪失
助ける者 ネイティブアメリカン ネイティブアメリカン

タイトルも、話の骨格も、重なっています。

つまり——ジャッキー・チェンが温めていた企画が、別の座組で先に形になったわけです。

そしてこの件が原因で、ジャッキー・チェンとサモ・ハンの関係は、しばらく良くなかったと言われています。

同じ学校で育った同門です。七小福の、あの2人です。

内容が、それまでと違う

そして重要なのは、その中身です。

過去のシリーズの黄飛鴻は、もっと格式のある、堅い人物として描かれてきました。しかしこの作品は違います。

一気にコメディテイストになっている。

堅苦しいことは全て無視して、コテコテのギャグや下ネタ、香港を代表する役者を随所に散りばめた——「The 香港映画」と言うべき作品になっています。

これは、こういうことだと思います。

「香港映画とは、こういうものだ」

その宣言として作られた。香港映画を育ててきた人たちが、最後にもう一度、自分たちが何者だったかを見せに来た。

そして私は、この作品を見るたびに思います。

喪失感や寂しさを予感させながら、香港の文化を、コメディとアクションで痛快に笑い飛ばそうとしている。

作品のいたるところに、決意が散りばめられています。

「僕たち香港映画は、なくならない。絶対にアイデンティティを喪失しないんだぞ。」

そう言っているように見える。

——が、そこが少し痛々しい。

なくならないと言い切らなければならないほど、失われるかもしれなかったということです。笑い飛ばそうとしていること自体が、失われるものの大きさを表している。

それでも——私は、この作品が大好きです。

「中身がない」でしょうか。

ただのアクション映画ではなかった

ここまで書いてきて、言いたいことは一つです。

彼らの作品を見て思うのは、ただのアクション映画じゃないということです。

時代と、ちゃんと戦ってきているアクション映画なんです。

自分たちが何者なのか。この土地はどうなるのか。それを、娯楽の中に埋め込みながら、笑い飛ばしながら、それでも作り続けてきた。

そして、それを見ていた人がいた

きっと、そこを見ていた人がいたのだと思います。

1997年前後、香港の映画人が次々と世界へ招聘されました。あれは「アクションが上手いから」だけではなかったはずです。

「香港映画だったら、新しいことができるんじゃないか」 「ここからイノベーションが起こせるんじゃないか」

そう思われたから、呼ばれた。私はそう考えています。

技術だけなら、真似すれば済みます。呼ぶ必要があったのは、その技術を生んだ人間の方だった。

冒頭の話に戻ります

「アクションマンだから、ドラマが理解できないんでしょう」

この記事の最初に書いた言葉です。

でも、ここまで見てきた通りです。時代と戦い、自分たちの立場を作品に埋め込み、それを娯楽の形で世界に届けた人たちが、アクションを作ってきました。

ドラマが理解できない人間に、あれは作れません。

結論:技術は、哲学の結果として現れる

私は彼らの背中を追いかけて、技術的にアクションとスタントを勉強してきました。

でも、私たちが作ってきたものと、彼らのものには決定的な違いがあります。

彼らは真剣に映画と向き合い、世の中と向き合い、哲学を持ってアプローチを続けた。その結果が、技術として昇華された。

順序が逆なんです。

技術を磨いた結果として作品があるのではなく、世の中と向き合った結果が、技術という形になって現れた。

技術は、ツールです

私は「アクションマンだから芸術は理解できない」「ドラマは分からない」と、散々言われてきました。

そのうえで、思うことを書きます。

私たちが考えている技術というものは、やっぱりツールなんです。

道具です。何かを届けるための。

そこに、メッセージがちゃんとないと駄目だと思うんです。

カメラの置き方も、編集も、ショットサイズの選び方も、全部そうです。何を伝えたいのかが先にあって、初めて意味を持つ。 逆から始めると、上手いだけのものになります。

メッセージがちゃんとあったから、香港映画は世界に行った。 私はそう思っています。

「中身がない」ということこそが、中身だった

最初の問いに戻ります。

日本の映画批評家は、香港映画を「中身がない」と言いました。私も何度も聞きました。

でも、ここまで書いてきた通りです。

自由に笑えること。権威に石を投げられること。 それが香港のアイデンティティであり、香港にいることの証明でした。だから娯楽作を作った。だからコメディを撮った。だから真面目くさった顔をしなかった。

そういう文化的な背景を持った場所が、香港映画でした。

だとしたら、こう言えると思います。

「中身がない」ということこそが、中身だった。

軽さは、逃避ではありません。そこにしかない自由の形でした。

そして、いま

正直なことを書きます。

1973年から今まで——カンフー映画も、香港映画も、いまは非常に少なくなってしまいました。

ブルース・リーが亡くなったときも、その影響は一度影を落としました。それでも香港映画は立ち上がり、コメディが育ち、ジャッキー・チェンが2つをまたぎ、返還を挟んで世界へ出ていき、映像の文法まで書き換えた。

その流れが、いまは細くなっています。

そして返還のあとも、本土の影響がある中で、「香港映画はなくなる」「もう終わりだ」と、ずっと言われ続けてきました。

それでも、まだ残っている

でも——まだ、ギリギリ残っているじゃないですか。

なくなると言われ続けて、それでも残っている。

そう考えると、やっぱり強いよね。

私は、そう思うんです。


R.I.P. 元奎/Corey Yuen

まとめ

作り手が何と向き合っているか。それが最終的に、技術の形をとって現れるのだと思っています。