SNSで、AIが作った動画が流れてきました。マイケル・ジャクソンが誰かと戦っているやつです。
よくできていました。動きも滑らかだし、顔も似ている。
ただ、彼が右手で殴ったあと——顔の横、耳の脇あたりで、手をパッと開いた。
それはマイケル・ジャクソンの癖ではありません。
ジャン=クロード・ヴァン・ダムの癖です。
学習元は、癖に出る
私はマイケル・ジャクソンの動きの癖をそれなりに知っています。そしてヴァン・ダムの癖も知っています。だから混ざった瞬間に分かりました。
「これ、『ブラッドスポーツ』を参照したでしょう」と。
面白いのは、顔でも声でもポーズでもなく、"癖"でバレたということです。殴ったあとに手を開く——本人以外は誰も意識していない、たった一瞬の所作。そこに学習元が出てしまう。
AIは対象の特徴は真似できます。でも別人の癖まで一緒に持ってきてしまう。そしてそれは、その人を見続けてきた人間には分かる。
なぜAIのアクションは物足りないのか
ここからが本題です。
AIのアクション動画を見て「なんか物足りない」と感じたことがある人は多いと思います。その正体は「間合い」です。
私は10代からアクションスタントを学び、アクション演出を学んできました。その目で見ると、AIの作るアクションには具体的におかしい点があります。
① 距離が近すぎる
普通なら、そこで殴りに行かない——という距離で、殴りに行っている。蹴りに行っている。
実際の身体では、その距離では力が乗りません。当たっても効かない。だから人はその距離で打たない。でもAIは打ちます。「殴る動作」と「その距離」の関係を、身体として持っていないからです。
② 腰が入っていない
蹴りも、腰を一個前に出せば、もっと深く刺さるし、強く入ります。 そういう蹴りを、AIはあまり出してくれない。
見た目は蹴っている。でも体重が乗っていない。だから「動いてはいるが、効いていない」映像になります。
つまりAIが再現できていないのは、動きの形ではなく、なぜその距離で、その足を出すのかという理屈です。
「ごまかし方」は理解している
もうひとつ、面白いことに気づきました。
AIのアクションは、クローズアップの寄りを多用します。パンチが当たる瞬間の寄り、受けた側の顔の寄り。それをバンバンと積み上げていく。
これ、正統なカット割りではありません。カットを「ダイジェスト」で並べているんです。「殴った」「受けた」という点だけを繋いでいる。
見ていて既視感がありました。80年代のサモ・ハンが、予算のない時にやっていた撮り方です。
長い動きを一連で見せられないとき、寄りで点を作って繋ぐ。これはこれで技術で、成立させられるのは凄いことです。
だからAIは、「ごまかす方法」も学習しているのだと思います。それは能力です。ただ同時に、限界の在り処でもあります。
(ネット上の作例を見ていると、ユエン・ウーピン監督『アイアンモンキー』のアクションを参照したのでは、と思うものが多い。屋根の上を逃げていくカットの作り方などに、それを感じます)
それでも敵わない、ということ
正直に書くと、私はAIの「神バトル動画」を面白いと思って見ることもあります。技術としては本当にすごい。
でも、素晴らしいアクションをリファレンスにしても、そこには到達できていない。80年代・90年代のジャッキー・チェンや、ジェット・リーの映画には、まだ届いていません。
そして最近、こう思うようになりました。
AIがそこへ到達しようとしていること自体が、人間の探究心の凄さの証明なのではないか、と。
マイケル・ジャクソンやジャッキー・チェンといった人たちが、狂気じみた執念で積み上げてきたものがある。だからAIはそれを目指すわけです。目指す対象になっている時点で、その人たちがどれだけのものを作ったか、という話になる。
エンターテインメントという言葉は、「おもてなし」という意味です。
あの人たちがやっていたのは、身体を張ったおもてなしでした。その水準に、AIはまだ敵わない。
まとめ
- AI動画は、特徴だけでなく別人の"癖"まで持ってくる。学習元は癖に出る
- AIのアクションが物足りない正体は 「間合い」と「体重移動」
- その距離では力が乗らない、という身体の理屈を持っていない
- ただし「寄りで点を繋ぐ」というごまかし方は理解している。それは能力でもある
- AIが目指している対象の凄さを、逆に照らし返している
AIのアクションを見るのが嫌いなわけではありません。むしろ、見るたびに元の映画を見返したくなります。それは悪いことではないと思っています。
