ブルース・リーの死後、"そっくりさん映画"が200本近く作られた

権利の話をします。といっても、条文の解説ではありません。

昔は、権利がずいぶん軽く扱われていた —— という話です。

いま著作権や肖像権がそれなりに守られているのは、過去に誰かが損をしたからです。今日はその跡地を、いくつか歩いてみます。

なお私は弁護士ではありません。ここに書くのは映像を作る側から見た話で、法律の判断ではないです。制度は変わるので、実務で迷ったら必ず最新を確認してください(この記事は2026年8月時点で書いています)。

ブルース・リーが死んだあと、何が起きたか

ブルース・リーは、1973年7月20日に亡くなりました。32歳です。

そして遺作『燃えよドラゴン』が世界的な大ヒットになったのは、その約1ヶ月後でした。

つまり、世界が彼に熱狂したとき、本人はもうこの世にいなかったわけです。

すると、何が起きたか。

「ブルース・リーっぽい別人」を主役にした映画が、大量に作られました。

名前も少しずつ変えてあります。本人ではないけれど、本人を思わせる。そういう作品群です。あまりに数が多いので、"ブルースプロイテーション" という呼び名までついています。

本数は諸説ありますが、一説には200本近くとも言われます。

そして、それだけお金が動いても、ブルース・リー本人にも、ご遺族にも、一円も入っていません。

肖像権が、ないようなものだった時代の話です。

いま同じことをやったら、まず間違いなく止まります。その「止まる」を作ったのは、こういう出来事の積み重ねです。

幼稚園バスに、キャラクターが描いてあった

もっと身近な話をします。

昔、そこらへんの幼稚園バスに、アンパンマンやポケモンの絵が描いてあったりしませんでしたか。

あれ、ちゃんと権利を取っているものもあれば、取っていないものもあったんじゃないかと思っています。あくまで推測ですが。

悪気はないんですよ。「子どもが喜ぶから」で描いてしまう。

でも、これ、今の「無断で作られたLoRA」や「無断生成」と、まったく同じ構図なんです。

悪意がないぶん、かえって怖い。「だめなことをしている」という実感がないまま、やってしまう。

キャラクターを使うということには、本来、お金と責任がついてきます。 契約を立てて、対価を払って、はじめて使える。「安く、なんとなく」使っていいものではない。

でも当時は、そこが緩かった。

名前ひとつに、権利がついてまわる

権利は、作品だけの話ではありません。名前にもついてきます。

俳優の千葉真一さんの、海外での芸名は Sonny Chiba です。

これ、最初は "Sony" と綴っていたそうです。そうしたら、あの電機メーカーの SONY からクレームが入って、綴りを変えた —— と伝わっています。

(この話は確定した記録として確認できたものではないので、「伝わっている」という留保つきで受け取ってください)

もうひとつ。アイレムの名作ゲーム 『スパルタンX』。

これはジャッキー・チェンの同名映画とのタイアップです。ところが、開発側は映画の中身を知らないまま、版権契約だけ先に結んでいた。

だからゲームの内容は、映画とほとんど関係がありません。海外では 『Kung-Fu Master』 という別のタイトルで売られています。

いま同じことをやったら、まず企画が通りません。当時は、版権の扱いがそのくらい大らかだったということです。

名前ひとつ、タイトルひとつに、権利と、お金と、気配りがついてまわる。それが権利の世界です。

当時は問題にならなかったものが、後から問われる

もうひとつ、肖像権の話を。

ロックバンド Nirvana のアルバム 『Nevermind』。ジャケットに、プールに浮かぶ赤ん坊の裸の写真が使われていました。

有名なジャケットです。当時、これが問題になった記憶はありません。

ところが、その赤ん坊だった Spencer Elden さんが、大人になった2021年に訴えました。 自分の裸を、勝手に世界中に売られた、と。

裁判は二転三転して、2024年には退けられています。

ただ、結果はどうあれ、まだ意思のない赤ん坊の裸を、世界中で売られるアルバムの顔にする —— これ自体、今の感覚なら大問題になりますよね。

当時は誰も問題にしなかった。でも、時代が変わると問われる。

肖像権というのは、じつはわりと最近になって、ようやくきちんと扱われるようになった権利です。

ときには、法律のほうが動く

逆の方向の話もしておきます。

ディズニーは、権利にものすごく厳しい会社として知られています。撮影現場でも、ディズニー関連のものが映り込みそうなら、まず消します。

なぜそこまで厳しいのか。

1998年にアメリカで著作権の保護期間を延ばす法律が成立していて、ディズニーがこれを後押ししたと言われています。 通称が 「ミッキーマウス保護法」。

(これも「と言われる」の範囲の話として書いています)

権利を守るために、法律のほうが動いたわけです。

軽く扱われていた時代から、ここまで来ている。振れ幅がすごい。

ここで、自分たちにも突っ込みを入れておきます

ここまで「昔は緩かった」という話をしてきました。

でも、昔の話として笑って終わるのは違うと思っています。

たとえば、企業の映像。

社員の肖像権は、今でもけっこう軽んじられていると感じます。

社員の方に出てもらう。ホームページにも載る。映像にも載る。会社は悪気があってやっているわけではありません。むしろ逆で、人を大事にしている会社です、ということを見せたい。

でも、出される側にとっては、顔と名前と所属が、検索できる形で残るということです。転職しても残る。

それが嬉しい人もいれば、そうでない人もいます。そして「嫌です」と言いにくい空気があることも、たぶんあります。

これ、幼稚園バスのアンパンマンと、そんなに遠くないと思うんです。悪意がないまま、誰かの権利をまたいでいる。

ここで、ひとつ聞かせてください

企業の映像を作っている方、発注している方に、聞きたいことがあります。

社員の方の肖像権、本当にちゃんと守れていますか。

考えたことはあるでしょうか。

一度も聞いたことがない、という場合。それは、同意があったことにはなりません。

断らなかっただけかもしれない。言えなかっただけかもしれない。

私も、聞かないまま撮ったことがあります。だから、責めているのではありません。気づいていなかった、というだけです。

そして気づいた以上は、次から聞けばいい。それだけの話だと思っています。

個人情報保護法もあります。そして、いろんなバックボーンの人がいて、いろんな価値観の人がいる。

だからこそ、人の意思は、大切に扱わなければいけない。

価値観のほうが、アップデートされていく

同じことが、権利以外でも起きています。

男女平等、ジェンダー平等の観点は、この10年でずいぶん変わりました。昔は普通に流れていた表現が、今は流れません。

制作現場でも変わってきていて、たとえば Netflix では、現場で 「リスペクトトレーニング」 と呼ばれる研修が行われている、と言われています。

(これも伝聞の範囲で書いています。ただ、そういう方向に業界が動いていること自体は、実感としてあります)

つまり、ルールも、価値観も、時代と一緒に進んでいる。

そして私たちは、AIを扱い、テクノロジーを扱い、そして人を扱う分野にいます。

だったら、そこもきちんと考えていかないといけない。

昔を笑っている場合ではなくて、自分たちも、まだ同じ場所に立っているという話です。

で、何が言いたいか

説教をしたいわけではありません。

言いたいのは、いま権利が守られているのは、当たり前ではないということです。

ブルース・リーの遺族に一円も入らなかったから。赤ん坊だった人が大人になって訴えたから。名前ひとつでクレームが入ったから。

誰かが損をした跡地に、いまのルールが立っています。

そして、いま私たちがAIで作っているものは、その跡地の、いちばん新しい場所にいます。

AIで生成した画像に、知らないキャラクターが混ざっていた。誰かの絵柄をそのまま再現するデータが出回っている。実在する人の顔が出てきてしまった。

悪意がないまま、やってしまう。 幼稚園バスのアンパンマンと、構図はまったく同じです。

だから、うるさく言われるようになったこと自体は、悪いことではないと思っています。

うるさく言われるということは、誰かの権利が、ちゃんと値段のつくものとして扱われているということなので。

名前ひとつに、権利とお金と気配りがついてまわる。

最後に、ひとつ問いを置いておきます

AIは、権利を守るためにも使えます。

さっきの社内研修映像の話に戻ります。

出たくない人を、出さずに済ませる。 AIアバターを使えば、それができます。

顔も名前も、世に出さなくていい。辞めても映像は使える。規定が変わっても、撮り直しで人を集めなくていい。

これは、人の権利を守るためにAIを使っている、ということです。

でも、まったく同じ技術で、逆のこともできます。

本人が許可していないのに、その人の顔を使って、喋らせる。ディープフェイクです。

使っている技術は、ほとんど同じです。人を、映像の中に登場させる技術。

なのに、一方は人を守り、もう一方は人を踏む。

分けているのは、技術ではありません。本人の同意があるかどうか、それだけです。

似た画像がすでに存在しないか調べる。権利者を探す。契約の抜けを洗い出す。出す前に止める。そういう使い方も、いくらでもできます。

そういう哲学のために使えたら、いちばんいいと思っています。

鉄人28号の主題歌に、「操縦する人間次第で、味方にも敵にもなる」という趣旨の有名な一節がありますよね。あれと同じ話です。道具のほうは、どちらに使われても文句を言いません。

昔、権利が軽く扱われていたのは、法律が未整備だったからだけではないと思います。扱う側の心持ちが、そこまで追いついていなかった。

そして今、私たちは、当時よりずっと強い道具を持っています。

法律は、いつも後から来ます。だから、先に立つのは、扱う人間の価値観です。

その価値観を、どうやって身につけていくのか。

これは私も答えを持っていません。ただ、AIを扱い、テクノロジーを扱い、人を扱うのなら、そこから逃げるわけにはいかないとは思っています。

これからの時代の人たちが、考えていくことなんじゃないでしょうか。